音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

母の入院

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5月の初め、母が入院したので、GW中に日帰りで帰省した。

 

4月末に母は自転車で側溝にはまって転んでしまい、全身に大きなあざができた。

骨折はしていないので、休んでいれば治ると言われていたらしいのだけど、

顔にも青あざができていて、母はそれがすごく悲しいと電話口で言っていた。

それから数日経ったころ、ふくらはぎがぱんぱんに腫れ上がった。

病院に行ったところ「すぐに入院してください」と言われたという。

 

母から電話があったとき私は家族でタクシーに乗っていた。

母は「お母さん、入院することになった」と、小さな声で言う。

お医者さんに電話をかわってもらうと

母は怪我が元で血栓ができ、放っておくとその血の塊が肺に到達してしまうため、

すぐにカテーテルを入れてお腹にフィルターをつけなくてはならない、ということだった。

肺に到達すると呼吸ができなくなり死んでしまうと言う。

 

「ご家族は?とうかがったところ、いないとおっしゃるので」

とお医者さんは言ったので

「いえ、いないということはないです」

と私は答えた。

「父は別居していますがすぐ近くに住んでいるので。

私も連休中にそちらにうかがいます」

でも、こういうときにすぐに来てくれない父も娘も、

もしかしたら「家族」のうちに入らないのかもしれないなと思った。

感傷ではなく、ただ実際の機能として。

 

父は母と10年以上別居している。(車で15分くらいの場所だけど)

私は中学のときに母と二人暮しを始め、大学入学を機に母親と離れた。

私が結婚するまでは、三人ともずっとひとりで暮らしていた。

両親は今でも一人暮らしを続けている。

 

三人で集まるのは、年に2回。お盆とお正月に30分程度。

お茶をするか立ち話をするかで、ごはんも一緒に食べない。

うちの家族はそういう形しかとれなかったし、

そういうもんだと三人ともが納得しているんだろうと思っている。

 

それでもこういうとき、

私の親は孤独を感じているのではないだろうか、

そばにいてくれるような娘だったらよかったのにとか

自分は家族作りに失敗したとか思っているのではないだろうかとか

他の家族を羨んでいるのではないかと考えなくはない。

 

そう考えるようになったのは息子が生まれてからだ。

10代までは私自身「他の家族を羨む娘」だった。

あの子の両親のように仲が良い親がよかった、

あの子の家族のようにいつも一緒にご飯を食べる関係がよかったなどと考えていた。

20代になってからは「家族は所詮個人の集まり」だと自分を納得させていたけど、

そういうふうに親も「他の家族を羨む」可能性があるのだとまでは考えたこともなかった。

 

 

広島へはれんたろうも夫も伴わず、自分ひとりで帰った。

駅まで迎えに来てくれた父はれんたろうもいると思っていたらしく

「えーっ」とか言って大げさに悲しんでいた。

「花でも買っていこうか、そろそろ母の日だしカーネーションとか」

と言うと、そういうのは今の病院はだめなんだと父が言うので、

駅前のカメラ屋でiPhoneに入っている写真を現像することにした。

れんたろうや、私たち夫婦の写真を20枚くらい現像した。

 

母は4人部屋にうつされていて、窓際の右奥にいた。

カーテンを開けると母はベッドに横になっていて、

私を見て起きようとしてもひとりでは起きられなかった。

顔には大きな青あざができていてクマがひどく、

顔色が悪いためか一気に老け込んで見えた。

話しかけても、対応が弱々しい。

あんなに背筋を伸ばせとうるさかったのに、痛いからなのか猫背になって

「ごめんね」「わざわざ来てくれんでもいいのに」などと言う。

れんたろうの写真を渡すとやっと少し笑って「会いたいね」と言った。

 

私はずっとどきどきしていた。

母がこのまま死ぬではないかと思ってどきどきしていた。

泣きそうになったけど、泣いてはだめだと思い、

「思ったより元気そうで安心した」とか

「あざなんか全然気にならない、もっとひどいかと思った」とか

「4人部屋にうつったということはすぐに退院できるってことだ」とか

全然大丈夫じゃんというふうにふるまってみせた。

 

看護師さんが昼ごはんを持ってきたので

私はお医者さんと話したいから呼んでほしいと言った。

来てくれたお医者さんは私と同い年か少し上くらいで、

顔を見た瞬間「なんだ、子供じゃないか」と思ってしまった。

そしてすぐ、「そうか自分はもうそういう年齢なんだ」と気が付いた。

 

お医者さんが言うに、

・血栓は薬で溶かしているがまだ塊は残っている状態

・小さい血の塊はフィルターをすり抜けて肺までいってしまう

・それで肺がちくちく感じることがあるが、呼吸困難に陥る可能性は低いと思う

・だが心配ではあるのであと1週間は様子を見て再検査したい

ということだった。

 

私はお医者さんに頭を下げた。

初めて「母をよろしくお願いします」と言った。

お医者さんは慣れた調子で「はい、こちらこそ」と言った。

 

 

私が今回(カーネーションのかわりに)写真を残していったのは、

母がひとりではないということを他の人にわかるようにするためだった。

お見舞いに来てくれた人に

「これが私の孫と娘婿」と見せられるように

「娘が京都から来てくれた」と言えるようにと思って現像した。

「自分はひとりではない」ということを他の人に見せられるように。

そばにいない私にできることはそれくらいだ。

 

母に「娘からのカーネーション」を送るのは世界で私しかいない。

最近そういうことをよく思う。

 

 

広島から帰ってきたらテーブルの上に花が活けてあった。

鴨川でれんたろうが「ママに」と摘んできてくれたらしい。

 

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嬉しかった。

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