音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

『愛』はコントロールできないけど、

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逢坂みえこの作品に「プロチチ」という漫画がある。

アスペルガー症候群の父親・直が、

専業主夫(途中からパートも始めるけど)になって育児するという話だ。

この漫画の中に繰り返し思い出しては励まされる場面がある。

 

予防接種に行った直が、たまたま同席した他の子の父親に

「自分の子を可愛いと思えます?」

と聞かれる。

彼いわく、子供が生まれれば愛情などというものは自然と芽生え、

自分もドラマに出てくるみたいないい父親になれると思っていたと。

 

直はそこで「必要ですか?愛って」と答える。

「A 愛がある B 愛がない ならAの方が望ましいでしょうが、

A 愛はあるけど世話しない B 愛はないけど世話をする なら

Bがベターだと思うのです。

『愛』はコントロールできないけど、『世話』は努力でなんとかなる」

(逢坂みえこ「プロチチ」1巻より)

 

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このあいだ、仕事から帰ってきて食事を用意し、

ふたりでごはんを食べていると

れんたろうが横から

「てべり(テレビのこと)つけてよー」

「おやさいいやや」

「ぼくこれたべれへん!」

などとうるさく言うので、疲れていた私は

いらいらして完全無視していた。

そうしたられんたろうは突然立ち上がって、

膝をテーブルにぶつけて

お味噌汁を畳の上にばしゃーっとひっくり返してしまった。

 

私は即座にキレてしまって「もうあんたごはんなし!」と

れんたろうに怒鳴りつけ、さらに彼のお箸を壁に投げつけた。

れんたろうは突っ立ったまま、

服のおなかのところをぎゅっとつかんで

「だって、ままが、だって」

と言いながら仏頂面をしていたけど、

「だってじゃない!」

と私がまた怒鳴るとすぐに顔をしわくちゃにして泣き出した。

ぞうきんでお味噌汁をふいていたら、

れんたろうが「ごめんね〜ごめんね〜」と泣きながら言う。

なおも私が無視していると、

「ぼくのはなし、きいてよ!」

とれんたろうが怒鳴った。

 

なんだかそのときハッとした。

そして、私は本当におとな気ないな、と情けなくなった。

 

プロチチの

「愛はコントロールできないけど、世話は努力でなんとかなる」

という言葉が浮かぶのはこういうときだ。

感情はコントロールできない。

でも、世話は努力でなんとかなる。

 

今私は感情に支配されていて、努力を放棄している。

彼よりも何年も長く生きて大きななりをしている私が、

努力もせずに感情に左右されて箸を投げつけて。

小さな彼に謝らせて、それも無視して。

ほんとに何やってんだろうなって。

 

私はまだむかむかしていたけど、

努力してれんたろうの顔を見た。

そして努力してれんたろうの顔をぬぐって、

努力してれんたろうに謝った。

「うん、もういいよ。ママもごめんね。

 れんたろうのはなし、聞かなくてごめんね」

 

れんたろうはうんうんうなずいて、

「まま〜ごめんね〜おみししるごめんね〜」とまた泣いた。

 

 

結婚をして、子供を産んで、

愛情だけではどうにもならない時間を何度も過ごした。

「出ていこう」と思ったことも何度もある。

そのたびに、夫が努力して謝り私を引き止め、

私が努力して翌日謝り、また一緒にごはんを食べた。

 

この5年間、何度も何度も努力して、

今、これまで築くことのできなかった

家族という関係を編み出している。

これは決して自然にできたものではなく、

私たちの人為的努力の結晶だ、と思う。

 

昔は、「人間関係における努力は不純で、愛情がすべてだ」と思っていた。

でも今は「人間関係における愛情は偶然で、努力は必然だ」と思っている。

そして、「努力をするということ自体が、永続的な愛情だ」と思っている。

 

努力をしないのが本当だ、と思っていた頃の私が見たら

がっかりするだろうか、おもしろいと思うだろうか。

 

宇多田ヒカルのDistanceの

「無理はしない主義でも君とならしてみてもいいよ」

っていう歌詞を聴くたびに、

「結婚とか育児ってそれなんじゃないの」と思う。

 

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