音読

たぶん日刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

今年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

「あれ、わたしのこどもよ」

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こどもとわたしの顔が似ているとよく言われる。
自分ではよくわからないのだけど、低い鼻だとか、目や耳たぶの大きさだとか、からだの大きさ(まわりの子より比較的背が高い)なんかは似ているかもしれない。でもそのひとつひとつ確かめてみても、やはり自分ではよくわからない。知り合いの親子を見ていて「そっくりだなあ」と思ってそう言ったら、「そうですかね?」と返されることがとても多いのは、みんな自分の顔を他人ほどちゃんと認識していないからかもしれない。特に「目が似ている」がいちばんピンとこないのはおもしろいことだと思う。

 

顔が似ているとか、背丈が似ているとか、そういうことで「自分のこどもだなあ」と思うことはわたしにはほぼない。
わたしにまとわりつく彼らをなんとか世話し、ときにうんざりして声を荒げ、かと思えばときにとても可愛く感じキスをする。
そんな関係においてのみ、わたしは「自分のこどもだなあ」と思う気がする。

 

わたしにはこどもを産む前からひとつ夢があって、それは自分がバスに乗って窓の外をふと見たときに、街を歩く自分のこどもを偶然見つけることなのだ。
「あれ、わたしのこどもよ」
と、隣にいる人に是非教えたい。そのとき息子は部活か何かの帰りでリュックを背負ってペットボトルでジュースを飲んでいるだろう。そのとき息子は大きなヘッドフォンをつけて音楽を聴いているだろう。そのとき息子は友達とマクドナルドのハンバーガーでも食べ歩きしているかもしれない。
とにかくそのときには息子は、わたしから離れていてきちんと生活を営んでいる。
その状況をバスの中からわたしは見ていて、「あれ、わたしのこどもよ」と笑いたいのだ。なんだかその距離感で「母親」であることにずっと憧れていた。なぜかはわからないが、そんな夢が昔からある。

 

このあいだ、廉太郎を学童に迎えに行ったときに、学童の先生が
「今日廉太郎くん、居残りしていたみたいですよ」
と言った。何か悪さでもしたのかと思い廉太郎に聞いてみると、
「先生と、読書感想文を書いててん」
と言う。
「読書感想文?」
「そう。国語のときに書いてたんやけど、『れんたろうさんのはしょうにだしますから』って」
「賞?」
賞に出す、という意味を彼はわかっていないみたいで、わたしの問い返しにも「ようわからんけど」と言ったが、詳しく話を聞いてみると、どうやら彼の書いた読書感想文が市か何かのコンクールに出される、ということらしかった。
「本当!?」
その瞬間、自分でも思いがけないほど嬉しがっている声が出た。廉太郎はびっくりした顔で、「うん」と言った。
「本当に? すごいねえ、廉太郎。すごい、ママびっくりした」
廉太郎はわたしの勢いに気圧されながらも、「すごいかな」と嬉しそうにむずむずする。
「すごいかわからへんけど、先生に『れんたろうさんはたくさん本をよんですごいですね』ってほめられた」
彼は入学から半年の間に図書室から50冊借りたみたいで、「あなたは50冊以上の本を借り、たくさんの本を読みました」と書かれた賞状ももらっていた。
「本当に、すばらしいね」
緑色の画用紙でできたその賞状を手に、わたしはなんだか泣きそうになってしまった。
「なんか泣きそう」
そう言うと廉太郎は、「泣かんといて」と言って、恥ずかしそうにした。

 

すごいねと言ったのも、すばらしいねと言ったのも、誰と比べて優れていたからとか、誰に褒められたからとか、そういうのではなかった。
こんなにわたしが嬉しがったのは、「本を読み、文章を書いてきた」というわたしの数少ない特徴が、幼い彼にもあるのだ、ということを感じたからなのだった。

 

「あなたたちのママは本を読むのが好きで、文章を書くのが仕事」
そんなことはわざわざ話すまでもなく、家でずっと一緒にいるこどもたちには伝わっていた。
本を読め、だなんて言い聞かせるまでもなく、わたしが本を読んでいる横で、こどもたちは本を読むようになっていた。
廉太郎は図鑑が好きで、朔太郎は車や猫(ぶっぶとにゃーにゃ)の絵本が好き。毎晩眠る前には本をそれぞれ読みながら、ふと気づいたときにはこどもたちが何冊もの本にまみれて先に眠っている。わたしは、本を一冊ずつ拾って片付けてから電気を消す。
それがすごく自然なことで、わたしはそのことに気がつかなかった。つまり、自分が彼らに影響を与えているかもしれないのだということを。
顔やからだつきが似ていることよりも、そのことのほうが、よっぽど自分を「母親」として認識させられることのように思えた。

 

 

放課後に先生と読書感想文を改稿している廉太郎の姿を想像すると、バスの中から歩いている廉太郎を見たような、そんな気持ちがした。

 

「あれ、わたしのこどもよ」

 

そう隣に人に笑って話すわたしは、もうこどもに手が届かない。
こどもはバスの外にいて、ちゃんと自分の足で歩いていて、自分で選んだものを食べたり、音楽を聴いたり、友達と話をしたりしている。
でも、その選んだもののはしばしに、話す言葉のはしばしに、もしかしたらわたしが存在しているかもしれない。もしかしたら、でいい。別に存在していなくたってそれはそれでいい。でもその可能性があるということは、なんだか泣きそうな気分で、わたしはきっといとおしそうに「わたしのこども」を見る。

 

「似ていますね」

と隣の人は言ってくれるかもしれない。そう言うと、わたしが嬉しそうにすると知っていて。

 

「早くその読書感想文読んでみたいな」

そう言ったら、廉太郎は「いいよ」と言って、嬉しそうに笑った。

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