音読

たぶん週刊ランラン子育て帖

どもんらんってどんな人?

2012年の1月、音読編集部のもとに赤ん坊が生まれました。名前はれんたろう。「にゃあ」というなき声がチャームポイントの男の子。新米ママ土門、今日も子育てがんばります。

ストライダーと最近接発達領域

IMG_1844

ストライダーというものを買った。

ストライダーというのは、ペダルとブレーキがついていない子供用の自転車だ。

以前音読フェスの打ち上げで、作家のいしいしんじさんとお酒を飲んでいた際に、「ストライダーいいよ。すぐに自転車に乗れるようになるし」と教えてもらった。

バランス感覚や脚力がつくのだとおっしゃる。

いしいさんの息子さんはそれに乗っているらしい。

それでうちも買おうとずっと思っていた。

 

れんたろうは自分の自転車が買ってもらえると聞いてとても喜んだ。

パソコンであれこれ調べながら、何色にするか悩んで結局黄緑を選んだ。

土曜に届くというのに、「きょうはぼくのじてんしゃ、とどくかなあ」

と毎日言った。「まだだよ、あしたのあしたのあしただよ」と言うと

「いや〜きょうがいい〜」と泣いた。

 

土曜、待ちわびていたストライダーが届くと飛んで喜び、

組み立てている私にまとわりついて邪魔がられたれんたろうは、

「ぼくのじてんしゃ、ぼくのじてんしゃ」とずっと言っていた。

 

ヘルメットをかぶってストライダーに乗ったれんたろう。

はじめはサドルにお尻をつけ、ぴょこぴょこと歩く。

「もっと蹴ってごらん」「しゅーってやってごらん」と言っても

「できひん」「あぶない」とか言って慎重に歩いている。

 

お昼になったので家に帰り、ごはんを食べたあと、

ストライダーに乗っている外国の子供の動画を見せてみた。

外国の子供は思い切り足を上げて、勢い良く滑るようにストライダーに乗っている。

それを見たれんたろうは「これ、ぼくのじてんしゃとおなじいっしょや」

(れんたろうはなぜか「おなじ」と「いっしょ」を続けて言う)と気づき、

なにやら真剣に外国の子の挙動を見つめた。

私が「れんたろうもこんなふうにできる?」と聞くと

「できる」と断言したので、午後もストライダーに乗ることにした。

れんたろうは、自分と同世代の子ができているのを目の当たりにして

「自分もできるんじゃないか」と思ったんだと思う。

 

そしたら、本当にできたのである。

短時間ではあるけれど、両足を上げてすいーっと滑った。

「すごいじゃん」と言うと鼻を膨らませて喜んだ。

急にうまくなった。まさに成長って感じだった。

 

その夜の飲み会で、その話を音読編集長の郁ちゃんに言うと、

「それはあれや、あのー、あれ。なんとか理論」

と言う。

よくよく聞いてみたらそれはなんとか理論ではなくて

「最近接発達領域」というものだった。

 

これは「ひとりでもできること」と「誰かに手助けしてもらったらできること」の差のことを指すのだという。

 

いろいろ調べてみたけどこの記事がいちばんわかりやすかったのでリンク。

http://www8.plala.or.jp/psychology/topic/proximal.htm

大事なところを引用すると、

 

「子どもが新しいことにチャレンジする際に、自分一人の力だけでそれを達成できるときと、大人がほんのちょっと手助けをしてあげることで達成することができることがあります。その2つの水準のズレをヴィゴツキーは発達の最近接領域と呼びました。ごくごく簡単に言ってしまうと、その人が持っている成長可能性とでも言えましょうか」

 

ということだ。

 

これだわ!と思った。

私も最近そういうことを考えてたんだよ。気があうな、ヴィゴツキーと思った。

 

私が土曜にやったことをまとめると、

 

1.まず、ストライダーにひとりで乗せてできるところまでやらせてみる。

2.そのあと、私が「本当はここまでできるんだよ」ということを見せてやる。

3.そしたら、れんたろうはぐっとストライダーに乗るのがうまくなった。

 

ということになる。

つまり、最近接発達領域とは、1と3の差のことである。

 

 

私は子供のころ、「科学研究」というものがすごく苦手だった。

なにをどうすればいいのか、一切わからなかったからだ。

母も父も「わからない」と言った。

先生に聞いても、フォーマットしか教えてくれないし、

「不思議だな、と思ったことを調べてごらん」と言うばかりだった。

私には、不思議だな、と思ったことを調べる、ということがまずわからなかった。

どうやって調べたらいいのか、何ならわかって何ならわからないのか、

がわからなかった。

読書感想文もわからなかった。作文と何が違うのかわからなかった。

高校に入って「小論文」を書かなければいけなくなったとき、

私はそれまでのこういうもやもやにいい加減見切りをつけようと思った。

大学受験に必須だったので、

とにかく「小論文とは何か」をはっきりさせねばと思ったのだ。

それで、国語の先生にマンツーマンで教えてほしいと頼んで、

1日1本のペースで何本も何本も書いた。

「小論文というのはこういう目的で書くものだから、

土門の小論文にはこれが足りない」

というのを先生は具体的に教えてくれた。

わからないときは納得するまでとことん聞いて、

先生も根気強くそれに付き合ってくれた。

それで私は、急に「わかった」のだ。

わかったので、「じゃあ図書館で文献を探してみよう」とか

「こういう書き方をしてみよう」とか自分のやるべきことが見え、

工夫をするようになった。

手応えがあったのでそれは全然苦痛ではなかった。

それを境にぐっと上達したのが自分でもわかった。

先生が「土門は3本目から急にうまくなった」と褒めてくれた。

 

そのとき、失礼な言い方ではあるが

「先生ってこういう使い方をするのか」と思った。

それで正直にそう言うと、先生は

「ほうよ。こうやって使うもんなんよ。

 先生っていう人種は知識だけはようけ持っとるけん、利用せんともったいない」

と真顔で言った。

大学に合格したとき、先生は私に一冊の本をくれて、

「土門はこれからも文章を書きんさい」と言った。

今でもそれは本棚にある。

先生はその後、どこかの学校の校長になったと聞いた。

 

そういうことを、れんたろうがストライダーに乗っているのを見ながら思い出した。

私は教えるのではなく、伸びる方向へ手助けをすればいいのだな、と思った。

 

できることが増えると、人生は楽しい。

もっとうまくなろう、もっと喜んでもらおう、と思えると

仕事も勉強も楽しい。

そういうことを伝えられたらと思う。

 

また次の休みも乗ろうね。

2015年8月のアーカイブ

これまでの連載