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第61週 「かわいい」のルネッサンス | N.E.O. / CHAI

「最近かっこいい音楽見つけた?」
と聞いたら友達が「CHAI!」と即答して、すぐCHAIをYouTubeで検索してMVの動画を見せてくれた。

そのときわたしが観たのは『sayonara complex』という曲で、全編即興で映像を撮ったらしい。

 

四人の女の子が、踊ったり楽器弾くまねしたりうたったりしている。
そこには、アイドルのような整った可愛さなんかはない。
でも観ているうちに、「うわー」と声が出た。
「うわー、なんやろ、すごい。すごいかわいい」
「そう。なんか、観ているうちにすごいかわいく見えてくる」

と(普段ヤンジャンのグラビアばっかり見ている)彼は言った。
「この子らをフェスで見たとき『あーもうバンド辞めようかな』と思った。圧倒的なほどセンスがありすぎて」

 

 

それからCHAIを聴きまくって、すぐCHAIのInstagramもフォローした。

彼女たちのインスタには

「NEOかわいい」と「コンプレックスはアートなり」

というハッシュタグがついている。

 

「コンプレックスはアートなり」!
その言葉を見たとき、「くそう、最高だぜ、CHAI!」と思った。

 

 

仕事とかコミュニケーションと呼ばれるものには大きくわけて二種類あって、それは、「ひとを萎縮させるもの」と「ひとを伸長させるもの」だと、わたしは思っている。

基本そのふたつに、人はお金を出したり、こだわったりするように思う。

 

たとえば「教育」というものひとつとってもそう。

「教わるたび、自分はばかだなあと自信をなくしてしまう」

という教育と、

「教わるたび、いつもなんだかわくわくする」

という教育がある。

前者はその不足感・不安感を拭おうとしてお金を払い続けるし、後者は楽しい幸せな気持ちに期待してお金を払い続ける。

 

たとえば「SNS」もそうで、「見ると自信をなくしてしまうような投稿」と「ワクワクして自分も何かしたいと思うような投稿」というのがある。
リア充なTweetには嫉妬を覚えてしまうのに、本気のTweetは自分も応援したくなってシェアしたくなる、みたいな。

 

「芸術作品」もそうで、「見ると自信をなくしてしまうような作品」と「ワクワクして自分も作ってみたいと思うような作品」というのがある。
こんなにうまく踊れないからと萎縮してしまうときと、自分もなんだか踊りたくなって一緒に踊りたくなるときと。

 

厄介なのは、「萎縮」は依存にすり変わりやすいということで、不足感・不安感を覚えると、それをどうにかせねば、とますますその対象にのめりこんでしまう。同一化をはかろうとしてしまう。その人に自分を認めさせたい、自分もそっち側にいきたい、と思ってしまう。

つまり、関係が「勝ち負け」になってしまって、勝つまでずっとこだわってしまうのだ。

いちばんわかりやすいのは「恋愛」においてなんだけど、それはもういいですかね?

 

 

わたしたち女の子は「かわいい」のために多大なるお金を支払っている。

お化粧品、美容整形、ダイエット、サプリメント、洋服、etcetc。

「かわいくなりたい」という欲求はものすごく強くて根源的な欲求だから、経済市場は見事にそれを貨幣に変える。

 

このあいだ雑誌に載っていた美容整形の広告を見ながら、ふと自分がこれを受けるとしたらいくらくらいかかるんだろうと考え、ためしにシミュレーションをしてみた。

まず鼻を高くしたい(チャリン)。
そばかすをなくしたい(チャリン)。
目を二重にしたい。胸を大きくしたい(チャリンチャリン)。

もうそろそろシミとか皺とかも気になるテーマではある(チャリチャリチャリン)。

結論は「直したいところありすぎてお金が足りないな」だった。

こうして、常に不安感や不足感を抱え餓えた気持ちでいることで、わたしも経済をまわしていくのだなあ、と、シミュレーションした自分を憂えた。

 

 

そんなときだ、CHAIを見たのは。
そのときは本当に

「ああこの子たちは、いろんな女の子を呪縛から解放しているのだろうな」

と思った。

「かわいい」の概念を完璧にひっくり返してしまったのだから。
アンドロイドみたいなアイドルだけが「かわいい」んじゃないんだよ。

不完全な人間らしいところが「かわいい」んだよって言ってるようで。

 

 

 

OTOTOYでのインタビュー記事がすごくよくて、読みながらわたしはにやにやしてしまった。

 

——見た目にコンプレックスはあるんですか?

一同 : あるある。いっぱいある。

 

——例えばどんなもの?

マナ : えー、私たちクラスにいる一番可愛い子じゃないじゃないですか。学生300人くらいおっても、本当に可愛い子って2、30人。そこの枠には絶対に入らない4人チームがCHAI!

 

——入りたかった?

マナ : 入りたかった! でも、生まれた顔は変えられないから、それを生かしていきたいし、すごい可愛くないとかじゃないかもしれないけど、だからこそできる表現がある。完璧じゃないから。

 

(中略)

——なるほど。じゃあ、4人はどんなミュージシャンになりたい?

マナ : バンドでグラミーをとりたい。

 

——え、グラミーってご存知ですか?

マナ : え、知ってますよ! 受賞して、アジア代表になりたい。

ユウキ : 世界ツアー行きたい。

マナ : 「可愛い」を変えたい。

 

——1つに絞るとしたら?

マナ : うーん、「可愛い」を変えたいかな。『アジアと言ったらCHAI』みたいな存在になりたい。世界レベル的にアジア=CHAIになりたい。

カナ : 私とマナ、卑弥呼に似てるから。

 

 

「私とマナ、卑弥呼に似てるから」!!

それを読んでもう、うなってしまった。最高すぎて。かわいすぎて。

 

 

アートの定義は多々あれど、そのひとつに「常識を壊す」があるのは間違いないと思う。
彼女たちは「かわいい」の常識を壊してしまった。
そしてそこに新しい「NEOかわいい」を作り上げた。
それはまさにルネッサンスで、「わたしたち人間は完璧じゃなくていい、むしろ完璧じゃないところが美なんだ」って言っている。

 

「あーもうバンド辞めようかな」と言っていた彼もどこか嬉しそうだった。
だって、ワクワクするものね、単純に。

さあ作ろう、完璧じゃないものを、って気になる。

 

コンプレックスはアートなり。とてもいい言葉。
この『N.E.O.』はCHAIのステートメントチューンとしてきらっきらに輝いている。

 

ありがとうCHAI。大好き。

 

(text 土門蘭)

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